円筒埴輪

歴 史 探 訪

V.古代(その1)

(このページは後援会のメンバーで作成しています)

[1]柄山古墳(岐阜県指定史跡)

(那加柄山町)

【柄山古墳、南からのGoogleMap3D図、右下は出土した鶏頭埴輪(左・正面・右)[1]

 市の北西の沖積地帯に浮かぶ独立丘陵(柄山:古墳を含めて標高38.7m)に造られた全長82mの前方後円墳です。

【柄山古墳(2022)】

【墳丘主軸の断面図】
(国土地理院地図の断面測定より)

【三角縁神獣鏡のレプリカ】

 築造時期は古墳時代前期末、4世紀後半とみられています。
 昭和32年(1957)ころ、古墳の周辺が削り取られて整地された際に、墳丘の南面から鶏を模した形の埴輪が出土しています (高さ11.6cm)。
 石段を上り切ったところからが古墳の始まりのようで、すぐに前方部の急斜面になっています。 後円部(54m)に比べて前方部(28m)が小さいためか、その斜面を上り切ると墳頂に着いてしまい 前方部と後円部の境が分からず、 まるで円墳のようです。
 この周辺には2基の前方後円墳を始め多数の円墳もあったようですが、開墾や都市化によって消失してしまったようです。 また、西方すぐのところには、県下3番目の大きさの琴塚古墳(岐阜市)があります。
 市内の前方後円墳では、この柄山古墳が最も古いのですが、古墳全体では、鵜沼の一輪山古墳が最古とされています。  ただ、この古墳は大正12年(1923)の開墾で今はありません。その時に三角縁神獣鏡が発見されていて、それによって4世紀後半の築造と推定されているのです。 正確には「三角縁波文帯四神二獣鏡」といいます。
「三角縁」(右写真のA)
鏡の縁の断面が三角形
「波文帯」(右写真のB)
鋸歯模様の帯の間の複波
「四神」(右写真のC)
中国神話の神仙
「二獣」(右写真のD)
龍と白虎?

◆古墳の分布図◆

【令和元年度 企画展 『古墳時代の各務原』展示解説[1]を参考に作成】

【都道府県別古墳密度】*2)

 市内の古墳の公式な数は、[岐阜県教育委員会 1990 『岐阜県遺跡地図改訂版』]による605基になっています。 県全体の古墳の数は5,140基*1)で、各務原はその約12%を占めています。
 また、全国の古墳の数を比較してみると、奈良県よりも出雲大社のある鳥取県の方がかなり多いことが以外でした。
古墳数古墳密度[注2]
1兵庫18,8511鳥取14,400
2鳥取13,4862京都11,332
3京都13,0163奈良10,956
8奈良9,700-----
10岐阜5,14011岐阜2,303

*1) 都道府県別の古墳の数
 文化庁公開の『埋蔵文化財関係統計資料』平成28年度[2]からのデータです。 ただし、分類上「古墳・横穴」とあるので横穴も含まれた数値です。
*2) 都道府県別の古墳密度数
 古墳密度数は、各都道府県の面積から森林面積を除いた平地面積1000㎢当りの古墳数としました。 総務省の定義によれば、
「可住地面積」
可住地面積とは,総面積から林野面積と主要湖沼面積を差し引いた面積をさす。
「林野面積」
林野面積とは,「現況森林面積」と「森林以外の草生地(野草地)の面積」を加えた面積をいう。
「森林以外の草生地(野草地)の面積」
森林以外の草生地(野草地)とは,森林以外の土地で野草地,かん木類が繁茂している土地の面積をいう。
「森林面積」
森林面積とは,木材が集団的に生育している土地及びその土地の上にある立木竹並びに木竹の集団的な生育に供される土地の面積をいう。 国有林野の林地以外の土地のうち岩石地、崩壊地、苗畑敷、道路用地等は森林には含めない。

 林野面積を差し引く「可住地面積」では野草地も除かれてしまうため、森林面積を差し引くだけの面積で密度を算出しました。 それでも標高の高い岩場などは含まれてしまっているかもしれません。
 因みに各務原市の面積は約88㎢で、単純にその面積からでも1000㎢当り6,875基で、県平均の3倍となります。


[2]坊の塚古墳(岐阜県指定史跡)

(鵜沼羽場町)

【坊の塚古墳】(岐阜県指定史跡)

【第二次発掘調査公開(2017/1)】

 岐阜県で2番目に大きな前方後円墳で、全長120mあります。
 平成5年(1993)に周壕の一部を発掘調査されていますが、本格的な調査は、鵜沼羽場町より市に寄贈された翌年の 平成27年(2015)からで、令和3年(2021)までに6度の発掘調査が行われました。
 築造時期は、柄山古墳より少し後の4世紀末〜5世紀初頭と推定されています。

【段丘崖(地理院地図より)と墳丘復元図[3]

【円筒埴輪列(2017/1)】

【第四次発掘調査公開(2018/12)】

【くびれ部の葺石(2018/12)】

 以下の構造的なまとめは、その後に開かれた講演「坊の塚古墳から何が分かったか−発掘調査から分かる坊の塚古墳の姿−」の資料[3]からです。
(上の地図の復元図も同資料から作成したもので、丸数字は文中を参照)


[3]大牧1号墳(各務原市指定史跡)

(鵜沼大伊木町)

【大牧1号墳の家形石棺】[1]

【大牧1号墳(2022)】

【狐塚古墳の家形石棺(2022)】

【発掘調査中の大牧1号墳】[4]

 昭和57年(1982)から4ヶ月かけて発掘調査が行われ、横穴式石室に家形石棺*3)が発見されました。 家形石棺は、可児から一宮にかけて多く見られる石棺で、各務原では珍しいそうです。
 現在も残っている家形石棺は、他に鵜沼西町の狐塚古墳があります。 ただ、石棺が剥き出しの状態になっていて、市指定史跡の表示杭がなければ、気付かづに通り過ぎてしまいそうです。
 全長45mの前方後円墳で、6世紀の終わり頃の築造と推定されています。後円部の直径は30mで、前方部については、 盛土の形跡がなかったことなどから、丘陵地を利用して後円部が造られ前方後円墳らしくなっているのかもしれません。
 昭和初期の調査では、この辺りで76基の古墳(前方後円墳3、円墳73)*4)が確認されていて、大牧古墳群と呼ばれています。 そのほとんどは滅失していて、残っているのはこの1号墳と、同じく前方後円墳のふな塚古墳(4号墳)だけなのです。
 その後、平成17年(2005)に再度発掘調査が行われ、1号墳から北東100mほどのところで、一号墳に匹敵する 周壕が見つかっています。

【 現在のふな塚古墳】(2022)

【発掘当時のふな塚古墳全景】[5]

【前方部の石室と家形石棺】[6]

【移設保存されている船来山272号墳】
(古墳公開のチラシより)

 ふな塚古墳は、大正から昭和初期にかけて後円部の大半と前方部の一部が削られてしまっていて、形態がはっきりしていませんでした。
 昭和59年(1984)の発掘調査で、周囲を葺石で覆った2段築成の前方後円墳であることが分かったそうです。 前方部の南側(前方側)が削られていることを考慮すると全長が50mほどの規模と見られ、後円部の直径は30mと推定されています。
 後円部の石室は破壊せれてありませんが、それとは別に前方部から全長13mの石室と家形石棺が発見されたのでした。 ただ、残念なことに石室の天井石が崩れて落ちて、石棺は原形を留めないほど潰れていたそうです。
 また、石室の壁や床は川原石で囲われていて、赤い顔料が塗られていたといいます。 こうした赤い石室は珍しく、県内では本巣市の「船来山272号墳」に続いて2例目だそうです。
 築造時期については、大牧1号墳より少し前で、前方部に横穴式石室が造られたのは、 1号墳より後の6世紀末から7世紀始め頃ではないかとみられています。

* * * *

 石室は竪穴式から横穴式へ、木棺から石棺へと追葬可能への変遷は、権力者の世襲が想定できるほど、 その勢力が安定し始めたからなのでしょうか。尤も、この大牧では追葬の痕跡はみられないといいますから、 それなりに争いは絶えなかったのかもしれません。
 自然の小山を利用したり、墳墓を使い回ししたりなど、全勢力を注ぎ込まなくなっているようにもみえます。 権力の象徴が墳墓から大型寺院へ移っていく過渡期だったからなのでしょうか。
●:1982年度発掘(1〜9号墳)*5):昭和初期の調査記録

【 大牧古墳群】(地図は国土地理院標高図、古墳位置は資料[1]参考)

*3) 石棺の形の種類
 割竹形、舟形、家形、長持形などがあり、右図はその形のイメージ(横面と縦断面)です。
 竪穴式石室に多い割竹形木棺は、大木の丸太を二つ割りにして中をくり抜いて作った円筒形の棺で、 割竹形石棺はこれを模したもので、家形石棺は、石板を組み合わせて作られています。
*4) 古墳群の調査記録
 昭和初期の調査で規模が記載されているのは59基。その内訳は、7〜16mが53基、18〜24mが5基で、1基だけが40m。 この1基がふな塚古墳で大牧1号墳の大きさは記載されていなかったそうです。
*5) 6号墳
 畑の開墾時に発見された6号墳の所在は不明だそうです。また、昭和初期の調査で址と記載されている古墳は ピンク色の●で表示しています(発掘以外の古墳の密集具合を示す目的なので赤に近い色)。


【参考資料・掲載写真の出典先】

  1. 各務原市埋蔵文化財調査センター 企画展「古墳時代の各務原」展示解説 2019

  2. 文化庁文化財部記念物課『埋蔵文化財関係統計資料』2016
    https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/pdf/r1392246_13.pdf

  3. 近藤美穂 講演「坊の塚古墳から何が分かったか」
       −発掘調査から分かる坊の塚古墳の姿−」(2021)の講演資料

  4. 各務原市埋蔵文化財調査センター『大牧1号墳−華麗なる武人の墓-』1992
    https://www.city.kakamigahara.lg.jp/…/04oomaki.pdf

  5. 各務原市埋蔵文化財調査センター『大牧古墳群』2003
    https://www.city.kakamigahara.lg.jp/…/21omaki.pdf

  6. 各務原市埋蔵文化財調査センター『ふな塚古墳−各務原の6世紀を語る-』1991
    https://www.city.kakamigahara.lg.jp/…/02hunatsuka.pdf


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