尖頭器
(東島池遺跡)

歴 史 探 訪

U.原始時代

(このページは後援会のメンバーで作成しています)

[1]宮塚遺跡

(蘇原宮塚町)

【発掘当時の宮塚遺跡】(『宮塚遺跡A地区発掘調査報告書』1994より)

【現在の発掘現場(2022/2)】

【宮塚遺跡から発掘されたナイフ形石器】
(『宮塚遺跡A地区発掘調査報告書』1994より)

 約1万8000年前の石器が発見されたという宮塚遺跡(@)です。 そのすぐ北側(A)が蘇我倉山田石川麻呂[MEMO]の墓と伝えられる小山で、市指定史跡にされています。
 発掘調査は、砂利採取事業に先がけてが平成5年末から翌年にかけて4ヶ月間行われました。 旧石器時代の石器14点を始め、縄文・弥生時代から中世・近世に至る各時代の断続的な痕跡が窺える複合的な遺跡で、 特に弥生時代の遺構や土器の発掘は、当時大いに注目されたようです。
 各務原は、こうした複合的な遺跡が非常に多く発掘されています。 ただ、調査が完了すれば、元々の目的の開発工事などが進められ、遺跡の痕跡は全く残っていません。

◆石器が出土した主な遺跡のマップ◆(『かかみがはらの石器』より作成)

旧石器時代、  ●縄文時代、  ●弥生時代



[2]炉端遺跡

(鵜沼三ツ池町町)

【復元された掘立柱建物から望む炉端遺跡公園(2022)】

 縄文時代中期後半(約5,000年前頃)を中心とした集落遺跡です。 そして、当時の住居などが復元されて炉端遺跡公園として広く知られています。

【A地区発掘調査風景(1971)[1]

【B地区発掘調査風景(2003)[1]

【C地区のの発掘現場(2012)[2]

《上の写真の出典》
[1]『炉端遺跡(A・B地区)』2006
[2]『炉端遺跡C地区発掘調査報告書』2018
A地区

昭和43〜46年(1968〜1971)

 10基の竪穴住居跡と多くの縄文土器などが発見されました。 そして昭和48年(1973)に、遺跡は岐阜県史跡、土器などの出土品は県重要文化財の指定を受け、 昭和61年(1986)からは炉端遺跡公園として多くの人に親しまれるようになったのでした。

B地区

平成14年度(2002〜2003)

 公園を北側へ拡張リニューアルの計画の元に調査が行われました。 竪穴住居跡は見つかりませんでしたが、代わりに掘立柱建物の柱穴、貯蔵穴と考えられる多数の土杭、野外炉などが発見されました。
 拡張された公園には、その建造物が復元されています。

C地区

平成24年(2012)

 竪穴住居址[MEMO]1基、掘立柱建物址と多く柱穴などが発見されていますが、 AB地区とは時空的にも別の集落の可能性が高いようです。
 ここは、航空自衛隊岐阜基地と県道江南関線を挟んで隣接しており、航空機の着陸コースになっているため、 低空で進入してくる航空機を間近に見られたりします。
また、戦時中に設置されていたとされる高射機関砲の遺構も今回の発掘調査で確認されています。

【炉端遺跡発掘地区】(国土地理院写真2022/2、拡張された公園にまだ更新されていない)

【土器棺墓(かんぼ)】
(『炉端遺跡(AB地区)2006より)

 右の写真のように土器棺墓も多数発見されています。土器棺墓とは、遺体を土器に納めて埋葬した墓のことですが、 この写真には次のような説明がなされています。

日常で使用する土器を、埋葬用の棺として使用したものです。大人の体は入らないので、一度土葬した後に骨を拾い集めて 土器棺に再葬したという説や、胎児や乳幼児の棺とする説があります

【炉端遺跡公園】(2022)

=MEMO=

天皇と蘇我氏の関係系図

蘇我倉山田石川麻呂
 飛鳥時代の豪族、蘇我馬子の孫で入鹿とは従兄弟の関係(右の系図参照)。
 皇極天皇4年(645)、宮廷内の儀式の最中に入鹿を暗殺するというクーデター(乙巳いっしの変)に加担したことで知られる人物。
 当時、権勢を握っていた蝦夷・入鹿親子の影で、年下の入鹿が大臣であることに不満を抱いていた石川麻呂を、 首謀者である中大兄皇子(後の天智天皇)が上手く仲間に引き入れたというべきかもしれません。
 その後、石川麻呂が右大臣に、藤原鎌足が新設の内臣(天皇の最高顧問)に任じられ、その内臣主導で進められた改革が「大化の改新」です。 ただ、その4年後、石川麻呂は謀反の疑いで弟の日向に追い詰められ、山田寺で自害したとされています。 その当時の山田寺と見られている蘇原寺島町は、この伝承の墓から南東に1,300mも離れています。

【伝・蘇我倉山田石川麻呂の墓(2022)】

【南の案内板のある休憩所から墓を望む(2022)】


「跡」と「址」
 『発掘調査報告書』では「址」という漢字が使用されていましたので「跡」との違いを調べてみました。
 「址」は
  ・以前に何かが存在したしるし、建物のあとや基礎,所在地
  ・城址、基址(土台)、廃址(建物などのすたれたあと)
 一方「 跡」は
  ・何かが通っていったしるし
  ・足跡・軌跡、跡目・名跡、筆跡、焼け跡、史跡
 こうして熟語などからみると「址」は静的なもの、「跡」は動的なものの「あと」といえそうです。 時間的にも「跡」は身近な痕跡が多いようです。尤も、戦後の当用漢字から「址」が外されたことで、 「跡」がその代用に使われてきたので、そうした明確な区別が難しいようです。
 城址じょうしは、かつてあったであろう城そのものを指し、城跡しろあとは城に関わる人々の営みをも連想させるのでしょうか。

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